跳至內容

第27師團

維基百科,自由的百科全書
第27師団
存在時期1937年昭和12年)8月31日
支那駐屯混成旅団
國家或地區 大日本帝國
部門 大日本帝國陸軍
規模混成旅団/兵団/師團
別稱
參與戰役日中戰爭

第27師團大日本帝國陸軍師團之一。抗日戰爭爆發後,支那駐屯軍廃止,支那駐屯軍直轄部隊的支那駐屯混成旅団改編為支那駐屯兵団,再改編為第27師団。

沿革

[編輯]

1938年(昭和13年)6月21日、支那駐屯兵団改編為第27師団。1938年7月4日大陸命第133號,列入中支那派遣軍第11軍戰闘序列。1938年7月25日參加武漢會戰。作戰結束,調天津付近警備擔當。1939年(昭和14年)9月為新設的支那派遣軍直轄師団。擔任華北方面的警備。後於1942年(昭和17年)7月大陸命第803號調入関東軍戰闘序列,師團司令部駐屯錦州

1944年(昭和19年)3月17日為參加大陸打通作戰,從駐屯地錦州出發、4月17日敵前渡黃河、4月19日佔領鄭州、5月9日上午攻至確山,與北進第11軍前來接應的宮下文雄少將的獨立第11旅團部隊會師,完成京漢陸路打通作戰。當即再次編入第11軍戰闘序列,繼續南下參加第二階段段的湘桂作戰。按照第11軍軍長橫山中將的命令,第27師團應在5月20日集結到信陽。師團長竹下義晴和幕僚研究後認為,確山至信陽為90公里,有工兵修築簡易汽車公路。以7-8天走完90公里並不困難。以師團司令部的部署,11日在確山休息一天,12日出發,以三個縱隊行軍,其中中路縱隊利用汽車路,兩翼縱隊利用兩側民間小路。為防備中美空軍的攻擊及白天的炎熱,行軍於每日下午5時至開始,以16公里為標準。5月14日20點,行軍縱隊在長台關三官廟附近遭到大暴雨,天亮後清點發現共有166人死亡,1500名病員。第11軍發動進攻廣西省後,轉隸第20軍,在湖南省茶陵投入遂贛作戰。1945年(昭和20年)1月30日佔領江西省遂川飛行場。攻佔贛州後,南下華南,移駐廣東,改隸第23軍。展開部署準備抗擊盟軍在中國南部登陸。盟軍發動沖繩戰役後,戰局変化,於1945年4月18日再度成為支那派遣軍直轄師団,從広東向上海方面移動。在南昌迎來無條件投降

司令部人事

[編輯]

歴代司令官

[編輯]
支那駐屯混成旅団長
  • 山下奉文 少將:1937年(昭和12年)8月26日 - 11月1日
  • 山下奉文 中將:1937年(昭和12年)11月1日 - 1938年(昭和13年)3月12日
支那駐屯兵団長
  • 山下奉文 中將:1938年(昭和13年)3月12日 - 1938年(昭和13年)7月15日
第27師団長
  • 本間雅晴 中將:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)12月2日
  • 冨永信政日語冨永信政 中將:1940年(昭和15年)12月2日 - 1942年(昭和17年)3月2日
  • 原田熊吉 中將:1942年(昭和17年)3月2日 - 1942年(昭和17年)11月9日
  • 竹下義晴日語竹下義晴 中將:1942年(昭和17年)11月9日 - 1944年(昭和19年)5月30日
  • (心得)落合甚九郎日語落合甚九郎 少將:1944年(昭和19年)5月30日 - 6月27日
  • 落合甚九郎 中將:昭和19年(1944年)6月27日 - 終戰

歴代參謀長

[編輯]
第27師団參謀長
  • 原田義和日語原田義和 歩兵大佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1939年(昭和14年)8月1日[1]
  • 太田公秀日語太田公秀 歩兵中佐:1939年(昭和14年)8月1日 - 1940年(昭和15年)10月22日[2]
  • 関根久太郎日語関根久太郎 大佐:1940年(昭和15年)10月22日 - 1944年(昭和19年)8月3日[3]
  • 一色正雄 大佐:1944年(昭和19年)8月3日 - 終戰

歴代兵器部長

[編輯]
  • 嶋田乙彥 中佐:1941年(昭和16年)8月1日 - 1943年(昭和18年)8月2日
  • 蚊野豊次 中佐:1943年(昭和18年)8月2日 - 1945年(昭和20年)5月25日
  • 山崎清吾 中佐:1945年(昭和20年)5月25日 -

歴代経理部長

[編輯]
  • 原田佐次郎 主計中佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1939年(昭和14年)8月1日
  • 秋田銀一 主計中佐:1939年(昭和14年)8月1日 - 1940年(昭和15年)12月2日
  • 西山霜次郎 主計中佐:1940年(昭和15年)12月2日 - 1941年(昭和16年)11月6日
  • 岡屋正治 主計大佐:1941年(昭和16年)11月6日 -

歴代軍醫部長

[編輯]
  • 後藤鐐枝 軍醫大佐:1938年(昭和13年)7月15日 - 1940年(昭和15年)8月1日
  • 新田太郎 軍醫大佐:1940年(昭和15年)8月1日 - 1942年(昭和17年)8月1日
  • 大坪美登 軍醫大佐:1942年(昭和17年)8月1日 -

歴代獣醫部長

[編輯]
  • 清水岩參郎 獣醫中佐:1941年(昭和16年)3月1日 - 1943年(昭和18年)4月2日
  • 川田京二 獣醫少佐:1943年(昭和18年)4月2日 -

隷下部隊

[編輯]

支那駐屯混成旅団の編制と1938年(昭和13年)當時の編制の括弧內の地名は衛戍地、最終所屬部隊の括弧內は補充地。

支那駐屯兵団の編制
1938年(昭和13年)當時の編制
  • 師団司令部(天津)
  • 第27歩兵団(唐山)[4]
    • 支那駐屯歩兵第1連隊(北平)
    • 支那駐屯歩兵第2連隊(天津)
    • 支那駐屯歩兵第3連隊(北平)
  • 山砲兵第27連隊日語山砲兵第27連隊(天津)
  • 工兵第27連隊(天津)
  • 輜重兵第27連隊(天津)
  • 第27師団捜索隊[5]
  • 第27師団通信隊
  • 第27師団兵器勤務隊
  • 第27師団衛生隊
  • 第27師団第1野戰病院
  • 第27師団第2野戰病院
  • 第27師団第3野戰病院
  • 第27師団第4野戰病院
最終所屬部隊
  • 師団司令部(佐倉):落合甚九郎中將
  • 支那駐屯歩兵第1連隊(佐倉):矢後孫二大佐
  • 支那駐屯歩兵第2連隊(東京):井上進大佐
  • 支那駐屯歩兵第3連隊(甲府):森田莊作大佐
  • 山砲兵第27連隊:村上誠一大佐
  • 工兵第27連隊:橋本時夫中佐
  • 輜重兵第27連隊:原田不二太中佐
  • 第27師団通信隊:鳳正文少佐
  • 第27師団兵器勤務隊:鈴木淺之助中尉
  • 第27師団衛生隊:乾作治郎少佐
  • 第27師団第1野戰病院:青柳良雄軍醫少佐
  • 第27師団第2野戰病院:紺谷信一軍醫少佐
  • 第27師団第4野戰病院:林二郎軍醫少佐

部隊歌

[編輯]
  • 第二十七師団の歌(一番のみ)
作詞・作曲:不詳1、 北支の天地京津の 山河に刻む四十年 駐屯軍の名は香る 勇士幾千紅の 血に彩りし伝統と 衿持(きんじ)を受けて生まれたる わが兵団 わが兵団 わが兵団は天下の精鋭 武漢の戦酣(たけな)わに 大嶺山の朝霞 元山尖の夜の雨 山獄地帯を 突破して 疾風のごとく若渓に 江南の敵を分斷す わが兵団 わが兵団 わが兵団は 天下の精鋭 鎧袖一度 觸るるとき 敵陣たちまち雪崩(くず)れたり 懸軍長軀二百餘里 奧漢水を遮斷して 陸水河畔秋風に 見よ翻る日章旗(ひのみはた) わが兵団 わが兵団 わが兵団は天下の精鋭 今発祥の地に立ちて 渤海の波岸を打つ 華北警備に鉄と地の 威力を馳せて新しき 秩序を築き極東の 黎明の鐘打たんかな わが兵団 わが兵団 わが兵団は天下の精鋭

腳註

[編輯]
  1. ^ 『陸海軍將官人事総覧 陸軍篇』390頁。
  2. ^ 『陸海軍將官人事総覧 陸軍篇』440頁。
  3. ^ 『陸海軍將官人事総覧 陸軍篇』410頁。
  4. ^ 昭和19年1月15日を以って第27歩兵団は復員する。
  5. ^ 昭和18年6月の満州移駐時の改編で師団捜索隊は解隊された。

參考文獻

[編輯]
  • 外山操・森松俊夫編著『帝國陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
  • 秦郁彥編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大學出版會、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍將官辭典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍將官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

相關條目

[編輯]

參考

[編輯]

大日本帝國陸軍師團總覽