日本院政時代年號列表
外觀
日本自第三十六代孝德天皇即位並建元大化起開始使用年號(日語:元号/げんごう Gengō)為其紀年方式,並在文武天皇於701年5月3日(大寶元年三月二十一日)再度恢復使用年號後,一直持續使用年號至今[1]。
日本的年號常取中國古籍中的辭句為典故,而改元的原因除天皇即位外,多數出於迷信及牽強附會。因天皇即位而進行的改元通常在天皇即位翌年進行,但有時候也會因為亂世而不在天皇即位翌年改元。自平安時代中期(天德、應和年間)起,改元之事均載於改元宸記中,而改元的程序也確立為先由大臣上奏年號勘文,然後天皇於選定會議中決定新年號。日本自醍醐天皇起開始因「辛酉革命」的緣故在辛酉年進行改元(當時為901年,由昌泰四年改元延喜),並自村上天皇起開始因「甲子革令」的緣故在甲子年進行改元(當時為964年,改元康保)。日本自醍醐天皇起也會因災禍等不祥之事而改元(當時為923年,改元延長)。[2]
以下列表僅收錄院政時代[註 1][註 2]啓用的日本年號。以下列表中,各年號的使用期與典故主要出自小學館出版的《日本大百科全書》,而每個年號的典故都分別附上維基文庫的文本連結供參考(如有)。
列表
[編輯]年號 | 使用期 (西曆年月日) |
使用期 (和曆年月日) |
在位天皇 | 改元理由 | 典故 | 參考 來源 |
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寬治 | 1087年5月11日 - 1095年1月22日 |
元年四月初七日[註 3] - 八年十二月十四日 |
堀河天皇 | 堀河天皇即位 | 《禮記·祭法》:「湯以寬治民而除其虐,文王以文治,武王以武功……此皆有功烈於民者也。」[8][註 4] | [10][7] |
嘉保 | 1095年1月23日 - 1097年1月2日 |
元年十二月十五日 - 三年十二月十六日 |
疱瘡流行 | 《史記·秦始皇本紀》:「嘉保太平。」[11] | [12] | |
永長 | 1097年1月3日 - 1097年12月26日 |
元年十二月十七日 - 二年十一月二十日 |
天變 地震 |
《後漢書·光武帝紀下》:「夾輔王室,尊事天子,享國永長,為後世[註 5]法。」[14] | [15][13] | |
承德 | 1097年12月27日 - 1099年9月14日 |
元年十一月二十一日 - 三年八月二十七日 |
天變 地震 |
《周易·蠱》:「幹父之蠱,用譽……承以德也。」[16] | [17] | |
康和 | 1099年9月15日 - 1104年3月7日 |
元年八月二十八日 - 六年二月初九日 |
地震 疾病 |
《政論》:「四海康和,天下同樂」。[註 6] | [19] | |
長治 | 1104年3月8日 - 1106年5月12日 |
元年二月初十日 - 三年四月初八日 |
天變 | 《漢書·賈誼傳》:「建久安之勢,成長治之業。」[20] | [21] | |
嘉承 | 1106年5月13日 - 1108年9月8日 |
元年四月初九日 - 三年八月初二日[註 7] |
彗星 | 《漢書·禮樂志》:「嘉承天和,伊樂厥福。」[23] | [24][22] | |
鳥羽天皇 | ||||||
天仁 | 1108年9月9日 - 1110年7月30日 |
元年八月初三日 - 三年七月十二日 |
鳥羽天皇即位 | 《文選·為賈謐作贈陸機》:「統天,仁風遐揚。」[25] | [26] | |
天永 | 1110年7月31日 - 1113年8月24日 |
元年七月十三日 - 四年七月十二日 |
彗星出現 | 《尚書·周書·召誥》:「欲王以小民受天永命。」[27] | [28] | |
永久 | 1113年8月25日 - 1118年4月24日 |
元年七月十三日 - 六年四月初二日 |
天變 兵革 疫疾 |
《詩經·小雅·南有嘉魚之什·六月》:「吉甫燕喜,既多受祉。來歸自鎬,我行永久。」[29] | [30] | |
元永 | 1118年4月25日 - 1120年5月8日 |
元年四月初三日 - 三年四月初九日 |
天變 疾疫 |
《周易·比[註 8]》:「比:吉。原筮元永貞,无咎。」[31] | [32][34] | |
保安 | 1120年5月9日 - 1124年5月17日 |
元年四月初十日 - 五年四月初二日 |
天變 厄運 |
《舊唐書·音樂三》:「含育九區,保安萬國。」[35] | [36] | |
崇德天皇 | ||||||
天治 | 1124年5月18日 - 1126年2月14日 |
元年四月初三日 - 三年正月二十一日 |
崇德天皇即位 | 《太平御覽·皇王部一》:「《易緯》曰:『帝者……德配天地……天子者,繼天治物。』」[37] | [38] | |
大治 | 1126年2月15日 - 1131年2月27日 |
元年正月二十二日 - 六年正月二十八日 |
疱瘡流行 | 《太平御覽·皇王部四》:「《河圖挺佐輔》曰:『黃帝修德立義,天下大治。』」[39] | [40] | |
天承 | 1131年2月28日 - 1132年9月20日 |
元年正月二十九日 - 二年八月初十日 |
炎旱 天變 |
《漢書·匡張孔馬傳》:「聖王之自為動靜周旋,奉天承親,臨朝享臣,物有節文,以章人倫。」[41] | [42] | |
長承 | 1132年9月21日 - 1135年6月9日 |
元年八月十一日 - 四年四月二十六日 |
疾疫 怪異 |
《史記·秦始皇本紀》:「長承聖治。群臣嘉德。」[11] | [43] | |
保延 | 1135年6月10日 - 1141年8月12日 |
元年四月二十七日 - 七年七月初九日 |
饑饉 疫疾 洪水 |
《文選·魯靈光殿賦》:「永安寧以祉福,長與大漢而久存。實至尊之所御,保延壽而宜子孫。」[44] | [45] | |
永治 | 1141年8月13日 - 1142年5月24日 |
元年七月初十日 - 二年四月二十七日 |
辛酉革命 | [48] | ||
近衞天皇 | ||||||
康治 | 1142年5月25日 - 1144年3月27日 |
元年四月二十八日 - 三年二月二十二日 |
近衞天皇即位 | 《宋書·後廢帝紀》:「以康治道。」[49] | [50] | |
天養 | 1144年3月28日 - 1145年8月11日 |
元年二月二十三日 - 二年七月二十一日 |
甲子革令 | 《後漢書·郎顗襄楷列傳》:「此天之意也,人之慶也,仁之本也,儉之要也。焉有應天養人,為仁為儉,而不降福者哉[註 9]?」[53] | [51][52] | |
久安 | 1145年8月12日 - 1151年2月13日 |
元年七月二十二日 - 七年正月二十五日 |
彗星出現 | 《晉書·劉頌傳》:「建久安于萬載,垂長世於無窮。」[54][註 10] | [56] | |
仁平 | 1151年2月14日 - 1154年12月3日 |
元年正月二十六日 - 四年十月二十七日 |
風水害 | 《後漢書·郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳》:「奮既立節,治[註 11]貴仁平。」[59] | [57][58] | |
久壽 | 1154年12月4日 - 1156年5月17日 |
元年十月二十八日 - 三年四月二十六日 |
變異 厄運 |
《抱朴子》:「其業在於全身久壽。」[60] | [61] | |
後白河天皇 | ||||||
保元 | 1156年5月18日 - 1159年5月8日 |
元年四月二十七日 - 四年四月十九日 |
後白河天皇即位 | 《顏氏家訓·文章》:「以保元吉。」[62][註 12] | [63][64] | |
二條天皇 | ||||||
平治 | 1159年5月9日 - 1160年2月17日 |
元年四月二十日 - 二年正月初九日 |
二條天皇即位 | 《史記·夏本紀》:「天下於是大平治。」[65] | [66] | |
永曆 | 1160年2月18日 - 1161年9月23日 |
元年正月初十日 - 二年九月初三日 |
兵亂 | 《後漢書·文苑列傳》:「馳淳化於黎元,永歷世[註 13]而太平。」[68] | [69][67] | |
應保 | 1161年9月24日 - 1163年5月3日 |
元年九月初四日 - 三年三月二十八日 |
疱瘡流行 | 《尚書·周書·康誥》:「已,汝[註 14]惟小子,乃服惟弘王,應保殷民。」[71] | [70][67] | |
長寬 | 1163年5月4日 - 1165年7月13日 |
元年三月二十九日 - 三年六月初四日 |
天變 疱瘡 |
《維城典訓》:「長之寬之,施其功博矣。」 | [72] | |
永萬 | 1165年7月14日[註 15] - 1166年9月22日 |
元年六月初五日[註 15] - 二年八月二十六日 |
天變 怪異 疾疫 |
《漢書·嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳》:「休徵自至,壽考無疆,雍容垂拱,永永萬年。」[76] | [74][75] | |
六條天皇 | ||||||
仁安 | 1166年9月23日 - 1169年5月5日 |
元年八月二十七日 - 四年四月初七日 |
六條天皇即位 | 《毛詩正義·昊天有成命》:「行其寬仁安靜之政,以定天下。……得至於太平。」[77] | [78] | |
高倉天皇 | ||||||
嘉應 | 1169年5月6日 - 1171年5月26日 |
元年四月初八日 - 三年四月二十日 |
高倉天皇即位 | 《漢書·嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳》:「天下殷當[註 16],數有嘉應。」[76] | [79][80] | |
承安 | 1171年5月27日 - 1175年8月15日 |
元年四月二十一日 - 五年七月二十七日 |
災變 厄會 |
[81][82] | ||
安元 | 1175年8月16日 - 1177年8月28日 |
元年七月二十八日 - 三年八月初三日 |
疱瘡流行 | 《漢書·蕭望之傳》:「為民除害[註 19],安元元。」[86] | [84][85] | |
治承 | 1177年8月29日 - 1181年8月24日[註 20] |
元年八月初四日 - 五年七月十三日[註 20] |
大極殿火災 天變 |
《太平御覽·皇王部十二》:「《龍魚河圖[註 21]》曰:『治……文得[註 22]……治承天精。』」[88] | [87][85] | |
安德天皇 | ||||||
養和 | 1181年8月25日 - 1182年6月28日 |
元年七月十四日 - 二年五月二十六日 |
安德天皇即位 | 《後漢書·逸民列傳》:「幸得保終性命[註 23],存神養和。」[90] | [89][85] | |
壽永 | 1182年6月29日[註 20] - 1184年5月26日[註 2] |
元年五月二十七日[註 20] - 三年四月十五日[註 2] |
饑饉 兵革 病事 |
《詩經·周頌·臣工之什·載見》:「以介眉壽,永言保之,思皇多祜[註 24]。」[29] | [4] | |
後鳥羽天皇 | ||||||
元曆 | 1184年5月27日 - 1185年9月8日 |
元年四月十六日 - 二年八月十三日 |
後鳥羽天皇即位 | 《尚書考靈耀》:「天地開闢,元曆紀名。月首甲子,冬至。」[93] | [94] |
註釋
[編輯]- ^ 院政時代為平安時代後期,此處取1086年(應德三年)為院政時代的開始時間。[3]
- ^ 2.0 2.1 2.2 平氏使用「壽永」年號至1185年4月25日(元曆二年/壽永四年三月二十四日)於壇之浦之戰戰敗並滅亡為止[4][5]。此處亦取平氏滅亡當年為院政時代的結束時間、鎌倉時代的開始時間[6]。
- ^ 《日本年號大觀》作「九日」。[7]
- ^ 後鳥羽天皇的年號「文治」也以此句為典故。[9]
- ^ 《日本年號大觀》作「代」。[13]
- ^ 《政論》實際文本未見此句。[18]
- ^ 《日本年號大觀》僅作「八月」。[22]
- ^ 比卦為「坤下坎上」[31],《日本大百科全書》誤作「坤上坎下」[32],「坤上坎下」(或「坎下坤上」)者為師卦[33]。
- ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作「乎」。[51][52]
- ^ 後鳥羽天皇、土御門天皇兩人的年號「建久」也以此句為典故。[55]
- ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作「政」。[57][58]
- ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均在「元吉」二字後多出「也」字。[63][64]
- ^ 《日本年號大觀》作「代」。[67]
- ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作通假字「女」。[70][67]
- ^ 15.0 15.1 《日本大百科全書》於「長寬」條稱1165年7月14日(長寬三年/永萬元年六月初五日)改元永萬[72],《日本年號全書》(日本の元号がわかる事典 Nihon no gengō ga wakaru jiten)與《日本國語大辭典》均從之[73],惟《日本大百科全書》「永萬」條與《日本年號大觀》均誤作1165年7月13日(長寬三年六月初四日;即前一日)已改元永萬[74][75]。
- ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均誤作「富」。[79][80]
- ^ 《日本大百科全書》作「承安汝文祖德」[81],而《日本年號大觀》則作「承安汝文德祖」(即缺「之」字)[82]。
- ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均在「安定此民」四字後多出「也」字。[81][82]
- ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作「除民害」。[84][85]
- ^ 20.0 20.1 20.2 20.3 源平合戰期間,源氏不使用「養和」年號[91],並在1183年10月31日(壽永二年/治承七年十月十四日)獲旨[92]後方開始使用「壽永」年號[91]。
- ^ 《日本大百科全書》誤作另一緯書《河圖挺佐輔》[87],《日本年號大觀》則僅作《河圖》[85]。
- ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均作「治欽文德」。[87][85]
- ^ 《日本大百科全書》與《日本年號大觀》均缺「終」字。[89][85]
- ^ 《日本大百科全書》作「祐」。[4]
參考資料
[編輯]- ^ 森本 1933,第3, 160頁.
- ^ 森本 1933,第3, 7-8, 10-12, 14, 15, 118頁.
- ^ 日本国語大辞典. 小學館. [2021-10-03]. (原始內容存檔於2021-11-01).
白河、鳥羽、後白河上皇三代の院政が行なわれた時代の応徳三年(一〇八六)から建久三年(一一九二)までの約一〇〇年間が中心となるが。
- ^ 4.0 4.1 4.2 小學館 1994,〔天皇〕安徳(あんとく)、後鳥羽(ごとば)〔改元理由〕飢饉(ききん)、兵革、病事による〔改元年月日〕養和(ようわ)2年(1182)5月27日寿永と改元、寿永3年(1184)4月16日元暦(げんりゃく)と改む、平氏は翌年滅亡するまで寿永を使用〔出典〕『詩経』周頌載見(しゅうしょうさいけん)篇の「以介眉寿永言保之、思皇多祐」による.
- ^ 日本国語大辞典. 小學館. [2021-09-28]. (原始內容存檔於2021-01-18).
元暦二年(一一八五)三月二四日、長門国(山口県)赤間関(下関市)壇ノ浦で行なわれた源平最後の合戦。平氏は源義経の率いる源氏の軍に敗れ、安徳天皇は二位尼と共に入水し、平教盛、知盛ら一族の多くも入水あるいは戦死、宗盛・建礼門院らは生け捕りとなり、平氏は滅亡。
- ^ 日本国語大辞典. 小學館. [2021-10-10]. (原始內容存檔於2021-10-19).
源頼朝が鎌倉に政権を樹立した文治元年(一一八五)から北条高時の滅亡した元弘三年(一三三三)までの約一五〇年間の時代。
- ^ 7.0 7.1 森本 1933,第206頁.
- ^ 戴聖. 祭法. 維基文庫, 23.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕後鳥羽(ごとば)〔改元理由〕火災、地震、兵革による〔改元年月日〕元暦(げんりゃく)2年(1185)8月14日文治と改元、文治6年(1190)4月11日建久(けんきゅう)と改む〔出典〕『礼記(らいき)』祭法の「湯以寛治民、而除其虐、文王以文治」による.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕応徳(おうとく)4年(1087)4月7日寛治と改元、寛治8年(1094)12月15日嘉保(かほう)と改む〔出典〕『礼記(らいき)』祭法の「湯以寛治民、而除其虐、文王以文治、武王以武功、此皆有功烈於民者也」による.
- ^ 11.0 11.1 司馬遷. 秦始皇本紀. 維基文庫, 6.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕疱瘡(ほうそう)の流行による〔改元年月日〕寛治(かんじ)8年(1094)12月15日嘉保と改元、嘉保3年(1096)12月17日永長(えいちょう)と改む〔出典〕『史記』巻6始皇本紀の「嘉保太平」による.
- ^ 13.0 13.1 森本 1933,第207頁.
- ^ 范曄. 光武帝紀下. 維基文庫, 1下.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕天変、地震による〔改元年月日〕嘉保(かほう)3年(1096)12月17日永長と改元、永長2年(1097)11月21日承徳(じょうとく)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻1光武帝(こうぶてい)紀の「夾輔王室、尊事天子、享国永長、為後世法」などによる.
- ^ 蠱. 維基文庫, 18.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕天変、地震による〔改元年月日〕永長(えいちょう)2年(1097)11月21日承徳と改元、承徳3年(1099)8月28日康和(こうわ)と改む〔出典〕『易経』蠱卦(こか)の「幹父之蠱、用誉承以徳也」によるという.
- ^ 崔寔. 政論. 維基文庫.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕地震、疾病による〔改元年月日〕承徳(じょうとく)3年(1099)8月28日康和と改元、康和6年(1104)2月10日長治(ちょうじ)と改む〔出典〕『崔寔(さいしょう)政論』の「四海康和、天下同楽」によるという.
- ^ 班固. 賈誼傳. 維基文庫, 48.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕堀河(ほりかわ)〔改元理由〕天変による〔改元年月日〕康和(こうわ)6年(1104)2月10日長治と改元、長治3年(1106)4月9日嘉承(かしょう)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻48賈誼(かぎ)伝の「建久安之勢、成長治之業」による.
- ^ 22.0 22.1 森本 1933,第210頁.
- ^ 班固. 禮樂志. 維基文庫, 22.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕堀河(ほりかわ)、鳥羽(とば)〔改元理由〕彗星(すいせい)による〔改元年月日〕長治(ちょうじ)3年(1106)4月9日嘉承と改元、嘉承3年(1108)8月3日天仁(てんにん)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻22礼楽志の「嘉承天和、伊楽厥福」による.
- ^ 潘岳. 為賈謐作贈陸機. 維基文庫, 24.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕鳥羽(とば)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕嘉承(かしょう)3年(1108)8月3日天仁と改元、天仁3年(1110)7月13日天永(てんえい)と改む〔出典〕『文選(もんぜん)』巻6の「統天仁風遐揚」による.
- ^ 召誥. 維基文庫.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕鳥羽(とば)〔改元理由〕彗星(すいせい)の出現による〔改元年月日〕天仁(てんにん)3年(1110)7月13日天永と改元、天永4年(1113)7月13日永久(えいきゅう)と改む〔出典〕『書経』召誥(しょうこう)の「欲王以小民受天永命」による.
- ^ 29.0 29.1 六月. 維基文庫.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕鳥羽(とば)〔改元理由〕天変、兵革、疫疾などによる〔改元年月日〕天永(てんえい)4年(1113)7月13日永久と改元、永久6年(1118)4月3日元永(げんえい)と改む〔出典〕不明、『詩経』小雅(しょうが)、南有嘉魚之什(なんゆうかぎょのじゅう)に「吉甫燕喜、既多受祉、来帰自鎬、我行永久」とある.
- ^ 31.0 31.1 比. 維基文庫, 8.
- ^ 32.0 32.1 小學館 1994,〔天皇〕鳥羽(とば)〔改元理由〕天変、疾疫による〔改元年月日〕永久(えいきゅう)6年(1118)4月3日元永と改元、元永3年(1120)4月10日保安(ほうあん)と改む〔出典〕不明、『易経』坤(こん)上坎(かん)下に「比吉原筮元永貞、无咎」とある.
- ^ 師. 維基文庫, 7.
- ^ 森本 1933,第212頁.
- ^ 劉昫. 音樂三. 維基文庫, 30.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕鳥羽(とば)、崇徳(すとく)〔改元理由〕天変、厄運による〔改元年月日〕元永(げんえい)3年(1120)4月10日保安と改元、保安5年(1124)4月3日天治(てんじ)と改む〔出典〕不明、『旧唐書(くとうじょ)』巻30音楽志に「含育九区保安万国」とある.
- ^ 皇甫謐. 皇王部一. 維基文庫, 76.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕保安(ほうあん)5年(1124)4月3日天治と改元、天治3年(1126)1月22日大治(だいじ)と改む〔出典〕『易緯(えきい)』の「帝者徳配天地、天子者継天治物」によるという.
- ^ 皇甫謐. 皇王部四. 維基文庫, 79.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕疱瘡(ほうそう)の流行による〔改元年月日〕天治(てんじ)3年(1126)1月22日大治と改元、大治6年(1131)1月29日天承(てんしょう)と改む〔出典〕『河図挺佐輔(かとていさほ)』の「黄帝修徳立義、天下大治」による.
- ^ 班固. 匡張孔馬傳. 維基文庫, 81.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕炎旱(えんかん)、天変による〔改元年月日〕大治(だいじ)6年(1131)1月29日天承と改元、天承2年(1132)8月11日長承(ちょうしょう)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻81匡衡(きょうこう)伝の「聖王之自為、動静周旋、奉天承親、臨朝享臣、物有節文、以章人倫」による.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕疾疫、怪異による〔改元年月日〕天承(てんしょう)2年(1132)8月11日長承と改元、長承4年(1135)4月27日保延(ほうえん)と改む〔出典〕『史記』巻6の「長承聖治、群臣嘉徳」による.
- ^ 王延壽. 魯靈光殿賦. 維基文庫, 11.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕崇徳(すとく)〔改元理由〕飢饉(ききん)、疫疾、洪水による〔改元年月日〕長承(ちょうしょう)4年(1135)4月27日保延と改元、保延7年(1141)7月10日永治(えいじ)と改む〔出典〕『文選(もんぜん)』巻3魯霊光殿賦の「永安寧以祉福、長与大漢而久存、実至尊之所御、保延寿而宜子孫」による.
- ^ 曹丕. 典論. 維基文庫, 8.
- ^ 房玄齡. 武帝紀. 維基文庫, 3.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕崇徳(すとく)、近衛(このえ)〔改元理由〕辛酉(しんゆう)革命による〔改元年月日〕保延(ほうえん)7年(1141)7月10日永治と改元、永治2年(1142)4月28日康治(こうじ)と改む〔出典〕『魏文典論(ぎぶんてんろん)』の「礼楽興於上、頌声作於下、永治長徳、与年豊」、『晋書(しんじょ)』武帝紀の「見土地之広、謂万葉而無虞、覩天下之安、謂千年而永治」による.
- ^ 沈約. 後廢帝紀. 維基文庫, 9.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕近衛(このえ)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕永治(えいじ)2年(1142)4月28日康治と改元、康治3年(1144)2月23日天養(てんよう)と改む〔出典〕『宋書(そうじょ)』の「以康治道」によるという.
- ^ 51.0 51.1 小學館 1994,〔天皇〕近衛(このえ)〔改元理由〕甲子(かっし)革令による〔改元年月日〕康治(こうじ)3年(1144)2月23日天養と改元、天養2年(1145)7月22日久安(きゅうあん)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻60郎顗(ろうがい)伝の「此天之意也、人之慶也、仁之本也、倹之要也、焉有応天養人、為仁為倹、而不降福者乎」による.
- ^ 52.0 52.1 森本 1933,第217頁.
- ^ 范曄. 郎顗襄楷列傳. 維基文庫, 30下.
- ^ 房玄齡. 劉頌傳. 維基文庫, 46.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕後鳥羽(ごとば)、土御門(つちみかど)〔改元理由〕明年が三合厄、地震・異変による〔改元年月日〕文治(ぶんじ)6年(1190)4月11日建久と改元、建久10年(1199)4月27日正治(しょうじ)と改む〔出典〕『呉志』巻7の「安国和民建久長之計」、『晋書(しんじょ)』巻46劉頌(りゅうしょう)伝の「建久安於万歳、垂長世於無窮」による.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕近衛(このえ)〔改元理由〕彗星(すいせい)の出現による〔改元年月日〕天養(てんよう)2年(1145)7月22日久安と改元、久安7年(1151)1月26日仁平(にんぺい)と改む〔出典〕『晋書(しんじょ)』巻46劉頌(りゅうしょう)伝の「建久安於万載、垂長世於無窮」による.
- ^ 57.0 57.1 小學館 1994,〔天皇〕近衛(このえ)〔改元理由〕風水害による〔改元年月日〕久安(きゅうあん)7年(1151)1月26日仁平と改元、仁平4年(1154)10月28日久寿(きゅうじゅ)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻61孔奮(こうふん)伝の「奮既立節、政貴仁平」による.
- ^ 58.0 58.1 森本 1933,第218頁.
- ^ 范曄. 郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳. 維基文庫, 31.
- ^ 葛洪. 抱朴子. 維基文庫, 8.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕近衛(このえ)、後白河(ごしらかわ)〔改元理由〕変異、厄運による〔改元年月日〕仁平(にんぺい)4年(1154)10月28日久寿と改元、久寿3年(1156)4月27日保元(ほうげん)と改む〔出典〕『抱朴子(ほうぼくし)』内篇巻8の「其業在於全身久寿」による.
- ^ 顏之推. 文章. 維基文庫, 4.
- ^ 63.0 63.1 小學館 1994,〔天皇〕後白河(ごしらかわ)、二条(にじょう)〔改元理由〕後白河天皇の即位による〔改元年月日〕久寿(きゅうじゅ)3年(1156)4月27日保元と改元、保元4年(1159)4月20日平治(へいじ)と改む〔出典〕『顔氏(がんし)家訓』文章篇の「以保元吉也」による.
- ^ 64.0 64.1 森本 1933,第219頁.
- ^ 司馬遷. 夏本紀. 維基文庫, 2.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕二条(にじょう)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕保元(ほうげん)4年(1159)4月20日平治と改元、平治2年(1160)1月10日永暦(えいりゃく)と改む〔出典〕『史記』巻2夏本紀の「天下於是大平治」による.
- ^ 67.0 67.1 67.2 67.3 森本 1933,第220頁.
- ^ 范曄. 文苑列傳. 維基文庫, 80下.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕二条(にじょう)〔改元理由〕兵乱による〔改元年月日〕平治(へいじ)2年(1160)1月10日永暦と改元、永暦2年(1161)9月4日応保(おうほう)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻110辺譲伝の「馳淳化於黎元、永歴世而太平」による.
- ^ 70.0 70.1 小學館 1994,〔天皇〕二条(にじょう)〔改元理由〕疱瘡(ほうそう)の流行による〔改元年月日〕永暦(えいりゃく)2年(1161)9月4日応保と改元、応保3年(1163)3月29日長寛(ちょうかん)と改む〔出典〕『書経』康誥(こうこう)の「已女惟小子、乃服惟弘王、応保殷民」による.
- ^ 康誥. 維基文庫.
- ^ 72.0 72.1 小學館 1994,〔天皇〕二条(にじょう)〔改元理由〕天変、疱瘡(ほうそう)による〔改元年月日〕応保(おうほう)3年(1163)3月29日長寛と改元、長寛3年(1165)6月5日永万(えいまん)と改む〔出典〕『維城典訓』の「長之寛之、施其功博矣」によるという.
- ^ 永万. Kotobank. [2021-09-29]. (原始內容存檔於2019-04-03).
1165年(長寛3年)6月5日改元。……天変や疾疫が続出したため長寛三年(一一六五)六月五日改元。
- ^ 74.0 74.1 小學館 1994,〔天皇〕二条(にじょう)、六条(ろくじょう)〔改元理由〕天変、怪異、疾疫などによる〔改元年月日〕長寛(ちょうかん)3年(1165)6月4日永万と改元、永万2年(1166)8月27日仁安(にんあん)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻64王褒伝の「休徴自至、寿考無疆、雍容垂拱、永永万年」による.
- ^ 75.0 75.1 森本 1933,第221頁.
- ^ 76.0 76.1 班固. 嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳. 維基文庫, 64下.
- ^ 孔穎達. 昊天有成命. 維基文庫, 19.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕六条(ろくじょう)、高倉(たかくら)〔改元理由〕六条天皇の即位による〔改元年月日〕永万(えいまん)2年(1166)8月27日仁安と改元、仁安4年(1169)4月8日嘉応(かおう)と改む〔出典〕『毛詩(もうし)正義』の「行寛仁安静之政、以定天下、得至於太平」による.
- ^ 79.0 79.1 小學館 1994,〔天皇〕高倉(たかくら)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕仁安(にんあん)4年(1169)4月8日嘉応と改元、嘉応3年(1171)4月21日承安(しょうあん)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻64王褒伝の「天下殷富、数有嘉応」による.
- ^ 80.0 80.1 森本 1933,第222頁.
- ^ 81.0 81.1 81.2 小學館 1994,〔天皇〕高倉(たかくら)〔改元理由〕災変、厄会による〔改元年月日〕嘉応(かおう)3年(1171)4月21日承安と改元、承安5年(1175)7月28日安元(あんげん)と改む〔出典〕『書経』洛誥(らくこう)の「王命予来、承安汝文祖徳」の正義「承文王之意、安定此民也」による.
- ^ 82.0 82.1 82.2 森本 1933,第223頁.
- ^ 83.0 83.1 孔穎達. 卷第十五. 維基文庫, 15.
- ^ 84.0 84.1 小學館 1994,〔天皇〕高倉(たかくら)〔改元理由〕疱瘡(ほうそう)の流行による〔改元年月日〕承安(しょうあん)5年(1175)7月28日安元と改元、安元3年(1177)8月4日治承(じしょう)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』の「除民害安元元」による.
- ^ 85.0 85.1 85.2 85.3 85.4 85.5 85.6 森本 1933,第224頁.
- ^ 班固. 蕭望之傳. 維基文庫, 78.
- ^ 87.0 87.1 87.2 小學館 1994,〔天皇〕高倉(たかくら)、安徳(あんとく)〔改元理由〕大極(だいごく)殿の火災、天変による〔改元年月日〕安元(あんげん)3年(1177)8月4日治承と改元、治承5年(1181)7月14日養和(ようわ)と改む〔出典〕『河図挺佐輔(かとていさほ)』の「治欽文徳、治承天精」による.
- ^ 皇甫謐. 皇王部十二. 維基文庫, 87.
- ^ 89.0 89.1 小學館 1994,〔天皇〕安徳(あんとく)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕治承(じしょう)5年(1181)7月14日養和と改元、養和2年(1182)5月27日寿永(じゅえい)と改む〔出典〕『後漢書(ごかんじょ)』巻83逸民伝・台佟(たいとう)の「幸得保性命、存神養和」による.
- ^ 范曄. 逸民列傳. 維基文庫, 83.
- ^ 91.0 91.1 日本の元号がわかる事典. 講談社. [2021-09-28]. (原始內容存檔於2021-09-29).
源頼朝(よりとも)ら源氏方は、養和年間から引き続き、1183年まで治承(じしょう)の元号を使用した。
- ^ 國史大系 14. 經濟雜誌社. 1901: 145. doi:10.11501/991104.
東海東山諸國年貢。神社佛寺並王臣家領莊園如元可隨領家之由。被下宣旨。依賴朝申行也。
- ^ 孫瑴. 古微書. 維基文庫, 2.
- ^ 小學館 1994,〔天皇〕後鳥羽(ごとば)(安徳)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕寿永(じゅえい)3年(1184)4月16日元暦と改元、元暦2年(1185)8月14日文治(ぶんじ)と改む〔出典〕『尚書考霊耀(しょうしょこうれいよう)』の「天地開闢、元暦紀名、月首甲子、冬至」によるという.
參考書籍
[編輯]- 森本角藏. 日本年號大觀. 東京: 目黑書店. 1933-07-01. doi:10.11501/1688696.
- 日本年号一覧. 日本大百科全書. 小學館. 1994-01-20 [2021-11-01]. (原始內容存檔於2021-03-23).
參見
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